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初代 木村重松

初代木村重松



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浪曲中興の祖といわれる桃中軒雲右衛門の一番弟子が、寄席打ちの名人で「安倍川町の師匠」といわれた初代木村重松。(のちの二代重勝)雲右衛門がまだ吉川繁吉と名乗り、旅回りを続けていた無名時代に、重松は弟子入りし、吉川繁之助と名乗る。重松は明治10年神田生まれ。本名を荻村(旧姓平木)勘太郎。明治31年に師匠雲右衛門が重松を残したまま三河家梅車の妻お浜と東京を出た。残された重松は浪花家玉造の紹介により浪花亭重勝の門人となる。その後も芸人同士の争いや、辛い旅回りと苦労を重ねようやく真打となる。真打になってしばらく、重松は雲右衛門と再会し、和解する。重松の師匠重勝が浪花亭の姓を返上し、木村重勝を名乗り独立。この時、木村一派が誕生した。以来、新興木村派のため蓄財を注いだ。大正初年より7年間関東浪曲の横綱の地位を保ち、43歳にして東京浪花節組合の頭取に就任する。昭和に入り重松は関東浪曲睦会を設立し、その傘下には浪花亭綾太郎、二代広沢虎造、二代玉川勝太郎、広沢瓢右衛門などがあり、関東で絶大な権力を握る。初代重行、松太郎、重春(後の三代虎造)など後年有名になった弟子も多く、晩年、息子である重若丸に二代目を譲り、二代重勝を襲名。その重松に少年時代憧れて、弟子入りの夢破れ、大阪で修行したのが広沢虎造である。次郎長伝の「馬鹿は死ななきゃ治らない」というアテ節は重松節から影響を受けたものといわれている。昭和13年没。(享年61歳)


代表作品/赤垣源蔵、成田利生記、慶安太平記 怪僧善逹道中付、続慶安太平記、皿廻し、続皿廻し、正雪の雨乞い、丸橋忠弥、吉田宿の焼打ち、小野川と雷電、新蔵兄弟/岐阜の弥太郎/大岡政談 天一坊、越前と伊豆、越前の閉門、相馬大作/安中草三郎、鍋島猫騒動、加賀鳶など

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