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桃中軒雲右衛門

桃中軒雲右衛門



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明治6年(1873)5月5日生まれ。
本名、岡本峰吉。
父親は吉川繁吉という旅回りの祭文語り。
生まれてすぐ茨城県結城市へ里子に出され8歳の時に、両親の元へ戻る。
9歳頃から吉川小繁と名乗り、父親の興行に同行する。
12歳で一座の看板主になる。父親の芸名から二代目吉川繁吉と称した。
上京後、三河家梅車の弟子となる。
明治35年(1902)7月、師匠・梅車とのトラブルから高弟の円車によって東京・横浜の寄席から閉め出され、名古屋、京都、大阪へと下る。
その際、沼津で桃中軒雲右衛門と改名。
明治35年3月、宮崎滔天(みやざき・とうてん)を弟子にとり、桃中軒牛右衛門を名乗らせる。
翌年6月、滔天の勧めで福岡に行き、滔天の旧友頭山満(とうやま・みつる)ら玄洋社の助力によって九州全域で成功を納める。
明治40年(1907)、34歳で東京本郷座の舞台に進出。演題は「義士銘々伝」前後二席。
総髪に波打たせて颯爽と舞台にあらわれ、従来の外題付を廃し、すぐに本文に入ったという。当時、レコードの普及もあって10日間の興行は大成功する。
翌年3月には有栖川宮大妃殿下の御前にて「南部坂雪の袂別」「赤垣源蔵徳利の別れ」を言上。
さらに明治45年(1912)末には歌舞伎座で独演会を開き、満員の盛況であった。
浪花節中興の祖、関東節の祖として浪曲史上に偉大な功績を残したが、晩年に肺を病み、大正5年(1916)4月から5月にかけて、新富座・本郷座と興業を打ちつづけ入道館開設5周年記念興行が東京での最後の公演であった。
新富座の時には38度から39度の発熱があり、それが入道館出演の時には39度6分となり、傍らの者が皆心配して止めたが、それも聞かず「頼まれた以上、骨が砂利になってもやる。舞台に出ていれば病気を忘れるから」と言って無理に舞台を務めた。
駒込吉祥寺前、武岳病院に入院し改善。6月29日に退院し、医師より注意を受けたが耳を貸さず、そのまま旅へ出てしまった。医師の言うことが的中し、9月28日に長男の西岡稲太郎の所で病気療養に入り、大正5年(1916)11月7日亡くなった。
享年43歳。
墓所は品川区天妙国寺。墓石は平成19年、品川区文化財史跡に指定された。
代表作品/征清の魁天祐侠銘々伝、四谷怪談、安中草三郎、成田山力士の仇討、佐倉宗五郎、赤穂義士本伝、根上り松、日蓮記、一休和尚伝、黒田騒動、天一坊、弥生物語など。




〜旧東海道散策〜

品川区南品川「天妙国寺」に有ります浪曲中興の祖、桃中軒雲右衛門の墓所が、
品川区文化財史跡に指定されました

お時間ございましたら、是非 旧東海道品川区散策の際に いにしえの時代に想いを
馳せてみては如何でしょうか・・。

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