浪曲とは
明治時代初期から始まった芸能で、三下りの三味線を用いて物語を節と啖呵(台詞)で演じる語り芸です。その母体は説経節、でろれん祭文、阿呆陀羅経などで、その先祖は宗教音楽時代の説経、祭文です。大阪では浪花伊助、東京では浪花亭駒吉が関東節の開祖とされています。
浪曲詳細
「日本浪曲史」正岡容(まさおか・いるる)著の中で、浪花節のルーツは説経節、デロレン祭文、阿呆陀羅経であり、その先祖には宗教音楽時代の説教、祭文であると書かれています。 そして、この説教、祭文の源流は 人皇二十九代欽明天皇の時代に渡来した中国の京調(きょうちん)、朝鮮の打鈴(だいしん)であるといわれています。説教、祭文のルーツである音楽が中国、朝鮮から渡来した時からすでに節と台詞の浄瑠璃風スタイルが確立されていたと云います。これが現在まで浪曲のスタイルとして残ったものだといえます。
浪曲はまた他の芸能と違い、「百人浪曲師がいれば、百人とも節が違う」といわれ、屋号や師匠の芸は受け継いでも自分自身の節を確立しなければなりません。
浪曲では一声、二節、三啖呵といわれ、味のある声に絶妙なタイミングで繰り出されるアテ節。情景、喜怒哀楽を表現する啖呵。これらが三位一体となっていい浪曲ができるといわれています。
江戸前期に説教は説経浄瑠璃として人気 を得ましたが、義太夫などの浄瑠璃に人気を奪われ、やがて消えて行きます。一方、祭文は現在のニュースのようにタイムリーな話題をおもしろおかしく聴かせ、その読み口をテンポアップさせたものを「ちょんがれ」や「阿呆陀羅経」と呼ばれ、庶民に流行しました。ニュースがない日には「鳥づくし」「虫づくし」「ないないづくし」などの余興をやるようになり、やがて物語性を求めて誕生したのが、歌舞伎のお染久松の題名になった「歌祭文」です。
このように浪花節は「ちょんがれ」の節、*「ちょぼくれ」の語り口、「デロレン祭文」の発声法、「阿呆陀羅経」のテンポ、「河内音頭」「江州音頭」のリズム、「講談」の会話の運びなどの要素を吸収し、完成したものだといえます。
文化、文政の ころ、語り物としての形を整えた「ちょんがれ」を浪花伊助が、「浮かれ節」と名付け大阪で大流行させ成功をおさめました。
明治初年、浮かれ節が浪花節と名を変え寄席に上がり、その後桃中軒雲右衛門が明治40年6月に、東京本郷座の大舞台に立ちました。舞台は美しい屏風で飾り、テーブル掛けも豪華に、三味線は衝立の陰に隠し、衣裳は紋付袴。この時の舞台形式が、現在の浪曲のスタイルとなりました。
*言葉の間に節がある意味。芝居のチョボというのは台詞の間に浄瑠璃を挟む事から節の名前が「ちょんがれ」で、文句の間を縫わすから「チョボクレ」と呼ぶようになったといわれている。